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「ダサい」は、最高。ーー鷹の爪親方が語る、不純物なしの“遊び場”

「ダサい」は、最高。ーー鷹の爪親方が語る、不純物なしの“遊び場”

「ダサい」は、最高。――鷹の爪親方が語る、不純物なしの“遊び場” 「かっこいいのは当たり前。でも、そこに『ダサさ』があるからこそ、魅力的なんです。」 そう語るのは、アパレルブランド「PUNK DRUNKERS(パンクドランカーズ)」を率いる親方。 独創 的なグラフィックと、どこかシニカルでユーモア溢れる世界観で熱狂的なファンを持つ彼が、今、 仕事という枠を飛び越えて純粋に「沼」にハマっているもの。それがホットウィールだ。 洋服やソフビのデザインを長年やってきた親方。そんな彼がなぜ、あえて「門外漢」であるミニ カーの世界に、子供のような無邪気さで飛び込んだのか。 今回は、自身のクリエイティビティの原点とも重なるホットウィールの魅力、そして彼の「無駄な時 間を楽しむ人生」について、たっぷりと語ってもらった。 はじまりは、海外のスーパーの「あの棚」 ミニカー自体は、子供の頃から好きでしたが、ホットウィールの1台目は高校生の時に、海外旅行 で購入しました。ウォルマートとかターゲットに行くと、ホットウィールがバーン!って並んでいて。 あの、日本ではありえない「雑な量」と「色使い」を見て「あ、これいいな」って思いました。    憧れの「キュッとなった」日本車 アメ車ももちろん好きだけど、やっぱり日本車が好きなんです。 アメリカの会社(マテル)が出してるホットウィールの中に日本車があるのが、なんか好きで。 特に*1ジャパン・ヒストリックスシリーズとか、*2カードのイラストがめちゃくちゃカッコいいですよ ね。あの絵がついた頃から、みんなの熱がさらに上がった気がします。 当初、*3ブルーバードとか*4ハコスカ、*5ケンメリあたりを「いいな」と思い探してました。  ケンメリとか、思いっきりアメ車に影響されたデザインが日本サイズで「キュッ」となってますよね。 あの独特な凝縮感、もう大好物です。小学校の頃に見て「カッコいいな」って思ってた記憶が、大 人になってもずっと残ってるんですよね。それが手のひらサイズになって、しかもアメリカナイズさ れた色で塗られてる。その「感じ」がたまらないんです。 *1ジャパン・ヒストリックス大人向けプレミアムラインの「カーカルチャー」シリーズにおける日本旧車セット。2016年に第一弾が登場した際、当時のJDM(日本国内市場仕様)ブームと相まって世界中で爆発的なヒットを記録。 *2カードパッケージの背面の厚紙のこと。車種ごとに異なる美麗なイラストが描かれており、このイラスト自体をコレクションの対象とするファンも多い。 *3ブルーバード日産が製造していた名車。ホットウィールでは特に「510(ゴーイチマル)」という型式が非常に人気で、カスタムカー界隈でもアイコン的な存在。 *4ハコスカ1969年に登場した3代目スカイラインの愛称。箱のような角ばったボディが特徴。日本の旧車文化を象徴する、世界的に人気のある一台。...

「ダサい」は、最高。ーー鷹の爪親方が語る、不純物なしの“遊び場”

「ダサい」は、最高。――鷹の爪親方が語る、不純物なしの“遊び場” 「かっこいいのは当たり前。でも、そこに『ダサさ』があるからこそ、魅力的なんです。」 そう語るのは、アパレルブランド「PUNK DRUNKERS(パンクドランカーズ)」を率いる親方。 独創 的なグラフィックと、どこかシニカルでユーモア溢れる世界観で熱狂的なファンを持つ彼が、今、 仕事という枠を飛び越えて純粋に「沼」にハマっているもの。それがホットウィールだ。 洋服やソフビのデザインを長年やってきた親方。そんな彼がなぜ、あえて「門外漢」であるミニ カーの世界に、子供のような無邪気さで飛び込んだのか。 今回は、自身のクリエイティビティの原点とも重なるホットウィールの魅力、そして彼の「無駄な時 間を楽しむ人生」について、たっぷりと語ってもらった。 はじまりは、海外のスーパーの「あの棚」 ミニカー自体は、子供の頃から好きでしたが、ホットウィールの1台目は高校生の時に、海外旅行 で購入しました。ウォルマートとかターゲットに行くと、ホットウィールがバーン!って並んでいて。 あの、日本ではありえない「雑な量」と「色使い」を見て「あ、これいいな」って思いました。    憧れの「キュッとなった」日本車 アメ車ももちろん好きだけど、やっぱり日本車が好きなんです。 アメリカの会社(マテル)が出してるホットウィールの中に日本車があるのが、なんか好きで。 特に*1ジャパン・ヒストリックスシリーズとか、*2カードのイラストがめちゃくちゃカッコいいですよ ね。あの絵がついた頃から、みんなの熱がさらに上がった気がします。 当初、*3ブルーバードとか*4ハコスカ、*5ケンメリあたりを「いいな」と思い探してました。  ケンメリとか、思いっきりアメ車に影響されたデザインが日本サイズで「キュッ」となってますよね。 あの独特な凝縮感、もう大好物です。小学校の頃に見て「カッコいいな」って思ってた記憶が、大 人になってもずっと残ってるんですよね。それが手のひらサイズになって、しかもアメリカナイズさ れた色で塗られてる。その「感じ」がたまらないんです。 *1ジャパン・ヒストリックス大人向けプレミアムラインの「カーカルチャー」シリーズにおける日本旧車セット。2016年に第一弾が登場した際、当時のJDM(日本国内市場仕様)ブームと相まって世界中で爆発的なヒットを記録。 *2カードパッケージの背面の厚紙のこと。車種ごとに異なる美麗なイラストが描かれており、このイラスト自体をコレクションの対象とするファンも多い。 *3ブルーバード日産が製造していた名車。ホットウィールでは特に「510(ゴーイチマル)」という型式が非常に人気で、カスタムカー界隈でもアイコン的な存在。 *4ハコスカ1969年に登場した3代目スカイラインの愛称。箱のような角ばったボディが特徴。日本の旧車文化を象徴する、世界的に人気のある一台。...

Mr. TSUSAKA SPECIAL INTERVIEW

Mr. TSUSAKA SPECIAL INTERVIEW

「遊びは、楽しくなくなったらダメ。至高のレジャーとしてのミニカー道。」 20年以上の歳月をかけ、独自のコレクションを築いた日本屈指のホットウィール・コレクターの津坂氏。1970年代の「赤箱」や「レッドライン」を中核に据えつつ、一台のモデルが世に出るまでの背景にある「筋書き」に強く惹かれ、希少なピースを掌中に収める。網羅的な収集とは一線を画し、金型の美しさと独自の直感が命ずる「ヤバい」個体を見出すスタイルが真骨頂。多忙な日々の中、ミニカーを自分のペースで人生を豊かにする「至高の遊び」と位置づけ、その飽くなき探究心は今もって留まることを知らない。 手のひらの中の世界遺産 Hot Wheelsという小さなミニカーの世界には、深い物語と哲学が詰まっている。その世界の奥深さを誰よりも知る男、津坂氏。彼は、20年以上の歳月をかけて、独自のコレクションを築き上げてきた。ただ集めるだけでなく、その一つひとつのモデルに宿る歴史、そしてそこに存在する「本物の価値」を追求する彼のコレクションは、まさに“手のひらの中の世界遺産”と言えるだろう。今回は、コレクターとして、そして一人の人間として、Hot Wheelsに魅せられた理由と、その哲学についてじっくりと伺った。 憧れのミニカーと「自分のペース」 最初は日本だとトミカから入ったけど、このサイズのミニカー(ホットウィール)に引き付けられましたね。6つぐらい年上のいとこが持ってたホットウィールが、トミカとは全然違う、キャンディーカラーなんかでね。それが、もう憧れですよ。小学校の高学年でお小遣いを貯めて、名古屋の祭典でその憧れのベンツなんかを手に入れたのが始まり。 本格的にコレクションに戻ってきたのは、2000年ちょっと手前ぐらい。社会人になって、自分の実生活が落ち着いた頃です。仕事が忙しかったから、余計に思ったんでしょうね。ミニカーって、旅行とかじゃなくて、時間とか制限されることなく、自分のペースでやれる趣味じゃないですか。だから、改めてホットウィールに的を絞って、自分の時間を豊かにするためにやり始めたんですよ。今は無き都内下町にあったHW専門店”M"を訪ねたのは、関東に行かないと自分の望むものが手に入らないと思ったから。もう25年くらい前の話ですよ。  コレクションへのこだわり 僕のコレクションの方向性は、古いのでいくと1974年ぐらいの日本の*赤箱シリーズ、*レッドラインのものが核なんです。この年式のやつが今でも一番追っちゃいますね。 でも、全部集めるのはつまらない。遊びだからね。見る人が見たら「ヤバいところだけをつまんでるね」って言われる、その「ヤバいところのもっとヤバいバージョン」を狙うんです。 ホットウィールって、金型(かながた)は最高なんだけど、大量生産される商品だと、なんか「もうちょっとやればかっこよく見えるのに」って思うことがある。それが後からうまく出てくると人気になる。僕が好きなのは、ポテンシャルが高いような状態で出てくるもの。色とか変えたら相当かっこいいのに、またこの組み合わせダサいなっていうのもあるけど、そこは自分でチェックして、いずれ買う兼ね合いを考える。色をどんだけ変えてきても、金型が気に入らないと自分とは縁がないなって思うんです。 *赤箱シリーズ1970年代にマテル社から日本国内で流通していた時期のミニカーの通称。「マテルのミニカ」と記載された赤い紙箱に包まれ、レッドラインモデルが数多くリリースされた。 *レッドライン主に1968年から1977年頃までに製造されたオリジナルシリーズのミニカー。ホイールの側面の赤いラインが特徴で、この「赤い線」が「レッドライン」の名の由来となっている。 プロトタイプ 製品よりも、製品化に至るプロセス、つまりプロト(*プロトタイプ)に興味が出ちゃうタイプなんですよ。今はやっぱりプロトとか買っちゃうんだと思う。インダストリアルっぽいじゃないですか。 何回か順番を経て、「これボツ」とか、「カラーリングどうするの?」って決まっていくのがイメージできる。知らないからこそ、夢があるんです。 プロトって、偽物かどうかというリスクも含めて遊びで楽しむもの。海外で作ってる流れで不思議なプロトとかも出てくるけど、組み合わせが自分のぴったりのものであれば、自分にとっては価値のあるものになる。気に入ってるからっていうだけで十分。反対に、正規のプロトでも、自分が気に入らない組み合わせだったら「ノーです」って言いますよ。 *プロトタイプデザイナーがコンピューター上でモデルを作成した後、かつてはレジンやクレイ、近年では3Dプリンターで出力された後、数段階の工程を経て作成される試供品。最終的なダイキャスト(金属)モデルとは異なる色、タンポが入っていない等の特徴も持ち、細部の確認や修正に使われる。開発プロセスの一環としてごく少数しか製造されないため、現存数が極端に少なく、そのモデルが生まれるまでの「過程」を知ることができる究極のコレクターズアイテム。 メキシコ版Hot wheels 僕の持ってるものの中で、値段に関係なく一台に絞れって言われたら、これですね。このメキシコ版*Good ‘OI Pick-Um-Up の他車には無い渋いカラーのやつ。プレミア的に上はあっても、お気に入りは何ですかって言われたらこれですね。通常の赤とかと違って、あえてメタリックでくすんだような変な色なんです。この微妙なのがまたいいんですよ。すべてにおいて良いかなと。 結局、僕らコレクターは全体に対しての値段で集めているわけですから、氷山の一角で光るものが何かという質問だと思うんです。この車は、そういう結論に至るまでに水面下に沈んでても光るんですよ。 *Good ‘OI Pick-Um-Up1956年型フォードF-100をベースに、1977年に登場したホットウィールの名作キャスト。荷台に固定された2台のモトクロスバイクが最大の特徴。メキシコ版では、本家アメリカ版にはない独自のカラーリングや、下地が透ける独特の塗装が施された個体が存在し、世界中のコレクターから熱烈な視線を浴びている。...

Mr. TSUSAKA SPECIAL INTERVIEW

「遊びは、楽しくなくなったらダメ。至高のレジャーとしてのミニカー道。」 20年以上の歳月をかけ、独自のコレクションを築いた日本屈指のホットウィール・コレクターの津坂氏。1970年代の「赤箱」や「レッドライン」を中核に据えつつ、一台のモデルが世に出るまでの背景にある「筋書き」に強く惹かれ、希少なピースを掌中に収める。網羅的な収集とは一線を画し、金型の美しさと独自の直感が命ずる「ヤバい」個体を見出すスタイルが真骨頂。多忙な日々の中、ミニカーを自分のペースで人生を豊かにする「至高の遊び」と位置づけ、その飽くなき探究心は今もって留まることを知らない。 手のひらの中の世界遺産 Hot Wheelsという小さなミニカーの世界には、深い物語と哲学が詰まっている。その世界の奥深さを誰よりも知る男、津坂氏。彼は、20年以上の歳月をかけて、独自のコレクションを築き上げてきた。ただ集めるだけでなく、その一つひとつのモデルに宿る歴史、そしてそこに存在する「本物の価値」を追求する彼のコレクションは、まさに“手のひらの中の世界遺産”と言えるだろう。今回は、コレクターとして、そして一人の人間として、Hot Wheelsに魅せられた理由と、その哲学についてじっくりと伺った。 憧れのミニカーと「自分のペース」 最初は日本だとトミカから入ったけど、このサイズのミニカー(ホットウィール)に引き付けられましたね。6つぐらい年上のいとこが持ってたホットウィールが、トミカとは全然違う、キャンディーカラーなんかでね。それが、もう憧れですよ。小学校の高学年でお小遣いを貯めて、名古屋の祭典でその憧れのベンツなんかを手に入れたのが始まり。 本格的にコレクションに戻ってきたのは、2000年ちょっと手前ぐらい。社会人になって、自分の実生活が落ち着いた頃です。仕事が忙しかったから、余計に思ったんでしょうね。ミニカーって、旅行とかじゃなくて、時間とか制限されることなく、自分のペースでやれる趣味じゃないですか。だから、改めてホットウィールに的を絞って、自分の時間を豊かにするためにやり始めたんですよ。今は無き都内下町にあったHW専門店”M"を訪ねたのは、関東に行かないと自分の望むものが手に入らないと思ったから。もう25年くらい前の話ですよ。  コレクションへのこだわり 僕のコレクションの方向性は、古いのでいくと1974年ぐらいの日本の*赤箱シリーズ、*レッドラインのものが核なんです。この年式のやつが今でも一番追っちゃいますね。 でも、全部集めるのはつまらない。遊びだからね。見る人が見たら「ヤバいところだけをつまんでるね」って言われる、その「ヤバいところのもっとヤバいバージョン」を狙うんです。 ホットウィールって、金型(かながた)は最高なんだけど、大量生産される商品だと、なんか「もうちょっとやればかっこよく見えるのに」って思うことがある。それが後からうまく出てくると人気になる。僕が好きなのは、ポテンシャルが高いような状態で出てくるもの。色とか変えたら相当かっこいいのに、またこの組み合わせダサいなっていうのもあるけど、そこは自分でチェックして、いずれ買う兼ね合いを考える。色をどんだけ変えてきても、金型が気に入らないと自分とは縁がないなって思うんです。 *赤箱シリーズ1970年代にマテル社から日本国内で流通していた時期のミニカーの通称。「マテルのミニカ」と記載された赤い紙箱に包まれ、レッドラインモデルが数多くリリースされた。 *レッドライン主に1968年から1977年頃までに製造されたオリジナルシリーズのミニカー。ホイールの側面の赤いラインが特徴で、この「赤い線」が「レッドライン」の名の由来となっている。 プロトタイプ 製品よりも、製品化に至るプロセス、つまりプロト(*プロトタイプ)に興味が出ちゃうタイプなんですよ。今はやっぱりプロトとか買っちゃうんだと思う。インダストリアルっぽいじゃないですか。 何回か順番を経て、「これボツ」とか、「カラーリングどうするの?」って決まっていくのがイメージできる。知らないからこそ、夢があるんです。 プロトって、偽物かどうかというリスクも含めて遊びで楽しむもの。海外で作ってる流れで不思議なプロトとかも出てくるけど、組み合わせが自分のぴったりのものであれば、自分にとっては価値のあるものになる。気に入ってるからっていうだけで十分。反対に、正規のプロトでも、自分が気に入らない組み合わせだったら「ノーです」って言いますよ。 *プロトタイプデザイナーがコンピューター上でモデルを作成した後、かつてはレジンやクレイ、近年では3Dプリンターで出力された後、数段階の工程を経て作成される試供品。最終的なダイキャスト(金属)モデルとは異なる色、タンポが入っていない等の特徴も持ち、細部の確認や修正に使われる。開発プロセスの一環としてごく少数しか製造されないため、現存数が極端に少なく、そのモデルが生まれるまでの「過程」を知ることができる究極のコレクターズアイテム。 メキシコ版Hot wheels 僕の持ってるものの中で、値段に関係なく一台に絞れって言われたら、これですね。このメキシコ版*Good ‘OI Pick-Um-Up の他車には無い渋いカラーのやつ。プレミア的に上はあっても、お気に入りは何ですかって言われたらこれですね。通常の赤とかと違って、あえてメタリックでくすんだような変な色なんです。この微妙なのがまたいいんですよ。すべてにおいて良いかなと。 結局、僕らコレクターは全体に対しての値段で集めているわけですから、氷山の一角で光るものが何かという質問だと思うんです。この車は、そういう結論に至るまでに水面下に沈んでても光るんですよ。 *Good ‘OI Pick-Um-Up1956年型フォードF-100をベースに、1977年に登場したホットウィールの名作キャスト。荷台に固定された2台のモトクロスバイクが最大の特徴。メキシコ版では、本家アメリカ版にはない独自のカラーリングや、下地が透ける独特の塗装が施された個体が存在し、世界中のコレクターから熱烈な視線を浴びている。...

THE GENESIS:BEETLE & PORSCHE

THE GENESIS:BEETLE & PORSCHE

『神話のプロトタイプ』― なぜポルシェは、この「カブトムシ(ビートル)」を愛さざるを得なかったのか ―~ 2026限定カービートルのデザイン源流を探る ~ 狂気から生まれた「1934年のマニフェスト」 ビートルの歴史を紐解くことは、後に「速さ」の代名詞となるポルシェという神話の、真の根源に触れることに他ならない。この「カブトムシ」の誕生背景にあるのは、1933年にドイツ首相アドルフ・ヒトラーが掲げた「国民車計画」という過酷な呪縛だった。 1934年、設計を任された天才エンジニア、フェルディナント・ポルシェに突きつけられた発注条件は、当時の常識を嘲笑うかのような無理難題だった。「家族が乗れ、100km/hで巡航し、かつ低価格で、整備が容易で壊れないこと」。当時のポルシェは自動車メーカーではなく、一介の設計事務所に過ぎなかったのである。 彼はこの物理的限界への挑戦に対し、あえてエンジンを車体最後端に追いやり、走行風で直接冷やすという「合理性の極北」を選択した。特徴的な流線型のフォルムは、空力・製造・構造のすべてを徹底的に突き詰めた、引き算の美学が生んだ結晶だ。この時、ビートルの背中で産声を上げた「RR(リアエンジン・リアドライブ)」と「空冷」という鼓動。それこそが、後に世界を震撼させる911のアイデンティティそのものだったのである。 356という名の「純化されたビートル」 1938年に生産が開始されたビートルは、戦後、復興と自由の象徴として欧州の「生活の足」となった。この質実剛健な傑作をベースに、ポルシェは自らの名を冠した最初の量産スポーツカー「356」を誕生させる。 だが、その中身を剥けば、そこにはVW由来のエンジンや部品が平然と鎮座していた。356とは、いわば「ビートルという原石を、スポーツの熱狂で研磨した姿」に他ならない。ビートルという強靭な「技術的母体」があったからこそ、ポルシェは初期の不安定な経営状況下でも、妥協なき走行性能を追求することができたのだ。ビートルは、ポルシェという神話が生まれるために用意された、最も贅沢で冷徹なプロトタイプだったのである。 巨大な帝国を揺るがした「アンチ・ヒーロー」 1950年代から60年代にかけて、アメリカの路上を支配していたのは、富と権力の象徴である「巨大なテールフィン」と「大排気量」だった。その肥大化した価値観に、鋭いナイフを突き立てたのがこの小さな「カブトムシ」である。 「小さい、遅い、地味」という特性。それは当時のアメリカ的大型車へのアンチテーゼとして熱狂的に受け入れられた。1960年代のカウンターカルチャーの波の中で、ヒッピーや学生たちは、高価な車を持たず、自ら手を汚して整備し、一台を長く愛するというビートルの姿勢に「反体制・反権威・個人主義」の象徴を見出した。 この「工業製品を思想の象徴へと変える」というパラダイムシフトこそが、ビートルを単なる乗り物から、映画『ラブ・バッグ』に描かれるような「人格を持つパートナー」へと押し上げたのである。 「カワバンガ」―― 羨望が生んだ西海岸の狂騒曲 1970年代、カリフォルニア。ポルシェという「高嶺の花」に手が届かない若者たちが、同じDNAを持つビートルを独自の感性で再構築し始めた。 リアフードを浮かせ、アロイホイールを履かせ、強烈なキャンディカラーで彩る。それはエリート主義への遊び心溢れる挑戦状であり、その熱狂がひとつのムーブメント「Kawa-Bug-A(カワバンガ)」へと結実した。 サーフカルチャーの興奮を叫ぶ名を冠したこの潮流は、ビートルの「実用性」を脱ぎ捨て、ポルシェの「官能」をストリートの感性で解釈し直したものだ。極限まで下げられた車高とクロームのエンジン。それは、ビートルという「神話のプロトタイプ」が、本流とは別の地平で開花させたもう一つの情熱の形である。 未完の美学 多くの自動車メーカーが量産性や快適性と引き換えに、リアエンジンという茨の道を捨て去る中、ポルシェだけがその設計思想をブランドの核として握りしめ続けた。ビートルが示した「RR」という独自の解法を、ポルシェは数十年の歳月をかけて、欠点を制御し、強みへと変えることで「芸術」へと昇華させたのだ。 2019年にその長い歴史に幕を下ろしたビートルだが、そのDNAは死んでいない。ビートルを眺めることは、911の、そしてポルシェというブランドの「剥き出しの設計思想」を覗き見ることと同義である。 その普遍的でレトロなフォルムに宿るのは、単なるノスタルジーではない。それは、半世紀以上にわたって世界を熱狂させ続ける、ある一族の「血の始まり」が刻まれた、終わることのない物語なのだ。 【Hot Wheels Collectors Japan Convention...

THE GENESIS:BEETLE & PORSCHE

『神話のプロトタイプ』― なぜポルシェは、この「カブトムシ(ビートル)」を愛さざるを得なかったのか ―~ 2026限定カービートルのデザイン源流を探る ~ 狂気から生まれた「1934年のマニフェスト」 ビートルの歴史を紐解くことは、後に「速さ」の代名詞となるポルシェという神話の、真の根源に触れることに他ならない。この「カブトムシ」の誕生背景にあるのは、1933年にドイツ首相アドルフ・ヒトラーが掲げた「国民車計画」という過酷な呪縛だった。 1934年、設計を任された天才エンジニア、フェルディナント・ポルシェに突きつけられた発注条件は、当時の常識を嘲笑うかのような無理難題だった。「家族が乗れ、100km/hで巡航し、かつ低価格で、整備が容易で壊れないこと」。当時のポルシェは自動車メーカーではなく、一介の設計事務所に過ぎなかったのである。 彼はこの物理的限界への挑戦に対し、あえてエンジンを車体最後端に追いやり、走行風で直接冷やすという「合理性の極北」を選択した。特徴的な流線型のフォルムは、空力・製造・構造のすべてを徹底的に突き詰めた、引き算の美学が生んだ結晶だ。この時、ビートルの背中で産声を上げた「RR(リアエンジン・リアドライブ)」と「空冷」という鼓動。それこそが、後に世界を震撼させる911のアイデンティティそのものだったのである。 356という名の「純化されたビートル」 1938年に生産が開始されたビートルは、戦後、復興と自由の象徴として欧州の「生活の足」となった。この質実剛健な傑作をベースに、ポルシェは自らの名を冠した最初の量産スポーツカー「356」を誕生させる。 だが、その中身を剥けば、そこにはVW由来のエンジンや部品が平然と鎮座していた。356とは、いわば「ビートルという原石を、スポーツの熱狂で研磨した姿」に他ならない。ビートルという強靭な「技術的母体」があったからこそ、ポルシェは初期の不安定な経営状況下でも、妥協なき走行性能を追求することができたのだ。ビートルは、ポルシェという神話が生まれるために用意された、最も贅沢で冷徹なプロトタイプだったのである。 巨大な帝国を揺るがした「アンチ・ヒーロー」 1950年代から60年代にかけて、アメリカの路上を支配していたのは、富と権力の象徴である「巨大なテールフィン」と「大排気量」だった。その肥大化した価値観に、鋭いナイフを突き立てたのがこの小さな「カブトムシ」である。 「小さい、遅い、地味」という特性。それは当時のアメリカ的大型車へのアンチテーゼとして熱狂的に受け入れられた。1960年代のカウンターカルチャーの波の中で、ヒッピーや学生たちは、高価な車を持たず、自ら手を汚して整備し、一台を長く愛するというビートルの姿勢に「反体制・反権威・個人主義」の象徴を見出した。 この「工業製品を思想の象徴へと変える」というパラダイムシフトこそが、ビートルを単なる乗り物から、映画『ラブ・バッグ』に描かれるような「人格を持つパートナー」へと押し上げたのである。 「カワバンガ」―― 羨望が生んだ西海岸の狂騒曲 1970年代、カリフォルニア。ポルシェという「高嶺の花」に手が届かない若者たちが、同じDNAを持つビートルを独自の感性で再構築し始めた。 リアフードを浮かせ、アロイホイールを履かせ、強烈なキャンディカラーで彩る。それはエリート主義への遊び心溢れる挑戦状であり、その熱狂がひとつのムーブメント「Kawa-Bug-A(カワバンガ)」へと結実した。 サーフカルチャーの興奮を叫ぶ名を冠したこの潮流は、ビートルの「実用性」を脱ぎ捨て、ポルシェの「官能」をストリートの感性で解釈し直したものだ。極限まで下げられた車高とクロームのエンジン。それは、ビートルという「神話のプロトタイプ」が、本流とは別の地平で開花させたもう一つの情熱の形である。 未完の美学 多くの自動車メーカーが量産性や快適性と引き換えに、リアエンジンという茨の道を捨て去る中、ポルシェだけがその設計思想をブランドの核として握りしめ続けた。ビートルが示した「RR」という独自の解法を、ポルシェは数十年の歳月をかけて、欠点を制御し、強みへと変えることで「芸術」へと昇華させたのだ。 2019年にその長い歴史に幕を下ろしたビートルだが、そのDNAは死んでいない。ビートルを眺めることは、911の、そしてポルシェというブランドの「剥き出しの設計思想」を覗き見ることと同義である。 その普遍的でレトロなフォルムに宿るのは、単なるノスタルジーではない。それは、半世紀以上にわたって世界を熱狂させ続ける、ある一族の「血の始まり」が刻まれた、終わることのない物語なのだ。 【Hot Wheels Collectors Japan Convention...

YOSHIO OKUI SPECIAL INTERVIEW

YOSHIO OKUI SPECIAL INTERVIEW

Hot Wheelsは“遊び”から“カルチャー”へ attictoyz代表の奥井善雄氏。レコード店やアパレル、ハイブランド業界を経て、ヴィンテージトイの世界へ。妻が購入した「ピンクのコブラ」を機にホットウィールの深遠な魅力に開眼し、自身のショップを設立した。プロダクトの背景にある物語や、「パープルパッション」などに宿る造形美を愛し、日本のコレクターコミュニティを長年牽引している。「なぜか惹かれる」という直感を大切に、ミニカーを単なる玩具ではなく一つの文化として発信し続けている。 日本のミニカーカルチャーを牽引する、attictoyz・奥井善雄社長の物語 「なんでかわからないんです。正直なところ。なんでかわからないけど、沼ってしまうんです」そう語るのは、日本のHot Wheelsカルチャーを最前線で支える attictoyzの奥井善雄氏。ヴィンテージトイを愛する一人の青年が、いかにしてHot Wheelsと運命的な再会を果たし、熱狂的なファンコミュニティを築き上げてきたのか。そして、なぜ人々は、この小さなクルマに魅了され、やがてカルチャーへと昇華させていくのか。これは、奥井氏が語る、Hot Wheelsに人生を捧げた男の物語です。   レコード屋 昔、レコード屋でバイトしてた時期がありまして。自分で店をやってたわけじゃなくて、働いてたんですけど、中古の輸入盤、特にR&Bとか、現地に行かないと売ってないような洋盤を扱ってました。僕は個人的にはUKロック、スミス、オアシス世代なんですけどね。でも、そういう音楽がずっと好きで、もう、耳にタコができるくらい聴いてました。 Levi'sからヴィンテージトイへ その音楽好きが高じて、次に熱中したのが古着やヴィンテージの世界です。一番最初に働いたのがLevi'sで、ヴィンテージジーンズが好きで、もう夢中でした。そのヴィンテージジーンズへの熱が、そのままヴィンテージトイに移行していったんです。最初はLevi'sやLeeの人形、スヌーピーなんかをアメリカで買ってて。元々、妻と二人ともアメリカのヴィンテージトイが好きだったんで、特に違和感なくハマっていきましたね。この頃はまだ、仕事になるとかじゃなくて、純粋に好きで集めてただけです。 ピンクのコブラ トイをコレクションしながらも、当時の仕事は全然違う分野で。GUCCIとかVuittonとか、ハイブランドのバッグを扱う仕事をしてたんです。そのカバンの仕事でロサンゼルスへ行く機会が増えて。もちろん仕事なんですけど、時間を見つけてはトイの買い付けをしてましたね。ロサンゼルスには*Frank&Sonっていう、室内のかなり大きなフリーマーケットがあって、そこに行って買ったり。あと、当時はPayPalもない時代に、国際郵便でマネーオーダーを送って、eBayでミニカーを仕入れてましたよ。切手じゃないですけど、手間がかかる分、手に入ったときの喜びは大きかった。2000年前後くらいの話ですかね。 そんな中、ある時、妻がeBayで買った*ピンクのコブラのミニカー(確かパッケージはHWでCORGIキャストだった記憶が、、?)を見たんです。その現物を見たときに、「うわ、これかっこ可愛い!」って、素直にそう思った。それがもう、僕のHot Wheelsの沼への入り口でしたね。集め始めたら、実は3、4歳の頃にお母さんによく買ってもらっていたミニカーだったって気づいて。これにはゾッとしましたね。無意識でまた惹かれてたんだなって。 *Frank&Son「Frank & Son Collectible Show」というアメリカのカリフォルニア州にある大きなコレクター向けのフリーマーケットまたはショー。アニメや映画愛好家、オタク、マニアに人気を誇り、収集品やポップカルチャーに興味がある人々が集う。 *ピンクのコブラのミニカー「シェルビー・コブラ」は、元レーサーであり、後に伝説的な自動車デザイナーとなるキャロル・シェルビーが手がけた、アメリカとイギリスの合作による高性能スポーツカー。Hot Wheelsのルーツである1960年代のアメリカンカーカルチャーを体現するモデルの一つで、実車が持つ伝説的なステータスと、その戦闘的なルックスから常に多くのコレクターに求められている。 attictoyz たくさん買って、手放せないやつだけ残して、残ったものを売ったりしてたら、いつの間にかお客さんがついてきてくれるようになって。中には「家に泊めてください」なんていう熱心な人もいて(笑)。「そんなしょっちゅう来るんやったら、めんどくせえから、店みたいにしたら?」って、半分冗談、半分本気で「ホームページ作った方がいい」ってなったのが、僕らの店、attictoyzの始まりです。 最初はヴィンテージトイ全般を扱ってたんですけど、鞄屋を辞めた後、妻に「もうミニカー屋さんしたら?」って言われて。サイトを作り直して、そこから本格的にHot Wheels一本でやり出したんです。妻には感謝してます。元々、二人ともヴィンテージトイが好きだったんで、自然な流れだったのかもしれない。 熱狂を生んだ一台「パープルパッション」...

YOSHIO OKUI SPECIAL INTERVIEW

Hot Wheelsは“遊び”から“カルチャー”へ attictoyz代表の奥井善雄氏。レコード店やアパレル、ハイブランド業界を経て、ヴィンテージトイの世界へ。妻が購入した「ピンクのコブラ」を機にホットウィールの深遠な魅力に開眼し、自身のショップを設立した。プロダクトの背景にある物語や、「パープルパッション」などに宿る造形美を愛し、日本のコレクターコミュニティを長年牽引している。「なぜか惹かれる」という直感を大切に、ミニカーを単なる玩具ではなく一つの文化として発信し続けている。 日本のミニカーカルチャーを牽引する、attictoyz・奥井善雄社長の物語 「なんでかわからないんです。正直なところ。なんでかわからないけど、沼ってしまうんです」そう語るのは、日本のHot Wheelsカルチャーを最前線で支える attictoyzの奥井善雄氏。ヴィンテージトイを愛する一人の青年が、いかにしてHot Wheelsと運命的な再会を果たし、熱狂的なファンコミュニティを築き上げてきたのか。そして、なぜ人々は、この小さなクルマに魅了され、やがてカルチャーへと昇華させていくのか。これは、奥井氏が語る、Hot Wheelsに人生を捧げた男の物語です。   レコード屋 昔、レコード屋でバイトしてた時期がありまして。自分で店をやってたわけじゃなくて、働いてたんですけど、中古の輸入盤、特にR&Bとか、現地に行かないと売ってないような洋盤を扱ってました。僕は個人的にはUKロック、スミス、オアシス世代なんですけどね。でも、そういう音楽がずっと好きで、もう、耳にタコができるくらい聴いてました。 Levi'sからヴィンテージトイへ その音楽好きが高じて、次に熱中したのが古着やヴィンテージの世界です。一番最初に働いたのがLevi'sで、ヴィンテージジーンズが好きで、もう夢中でした。そのヴィンテージジーンズへの熱が、そのままヴィンテージトイに移行していったんです。最初はLevi'sやLeeの人形、スヌーピーなんかをアメリカで買ってて。元々、妻と二人ともアメリカのヴィンテージトイが好きだったんで、特に違和感なくハマっていきましたね。この頃はまだ、仕事になるとかじゃなくて、純粋に好きで集めてただけです。 ピンクのコブラ トイをコレクションしながらも、当時の仕事は全然違う分野で。GUCCIとかVuittonとか、ハイブランドのバッグを扱う仕事をしてたんです。そのカバンの仕事でロサンゼルスへ行く機会が増えて。もちろん仕事なんですけど、時間を見つけてはトイの買い付けをしてましたね。ロサンゼルスには*Frank&Sonっていう、室内のかなり大きなフリーマーケットがあって、そこに行って買ったり。あと、当時はPayPalもない時代に、国際郵便でマネーオーダーを送って、eBayでミニカーを仕入れてましたよ。切手じゃないですけど、手間がかかる分、手に入ったときの喜びは大きかった。2000年前後くらいの話ですかね。 そんな中、ある時、妻がeBayで買った*ピンクのコブラのミニカー(確かパッケージはHWでCORGIキャストだった記憶が、、?)を見たんです。その現物を見たときに、「うわ、これかっこ可愛い!」って、素直にそう思った。それがもう、僕のHot Wheelsの沼への入り口でしたね。集め始めたら、実は3、4歳の頃にお母さんによく買ってもらっていたミニカーだったって気づいて。これにはゾッとしましたね。無意識でまた惹かれてたんだなって。 *Frank&Son「Frank & Son Collectible Show」というアメリカのカリフォルニア州にある大きなコレクター向けのフリーマーケットまたはショー。アニメや映画愛好家、オタク、マニアに人気を誇り、収集品やポップカルチャーに興味がある人々が集う。 *ピンクのコブラのミニカー「シェルビー・コブラ」は、元レーサーであり、後に伝説的な自動車デザイナーとなるキャロル・シェルビーが手がけた、アメリカとイギリスの合作による高性能スポーツカー。Hot Wheelsのルーツである1960年代のアメリカンカーカルチャーを体現するモデルの一つで、実車が持つ伝説的なステータスと、その戦闘的なルックスから常に多くのコレクターに求められている。 attictoyz たくさん買って、手放せないやつだけ残して、残ったものを売ったりしてたら、いつの間にかお客さんがついてきてくれるようになって。中には「家に泊めてください」なんていう熱心な人もいて(笑)。「そんなしょっちゅう来るんやったら、めんどくせえから、店みたいにしたら?」って、半分冗談、半分本気で「ホームページ作った方がいい」ってなったのが、僕らの店、attictoyzの始まりです。 最初はヴィンテージトイ全般を扱ってたんですけど、鞄屋を辞めた後、妻に「もうミニカー屋さんしたら?」って言われて。サイトを作り直して、そこから本格的にHot Wheels一本でやり出したんです。妻には感謝してます。元々、二人ともヴィンテージトイが好きだったんで、自然な流れだったのかもしれない。 熱狂を生んだ一台「パープルパッション」...

TAKAHIRO TANI SPECIAL INTERVIEW

TAKAHIRO TANI SPECIAL INTERVIEW

「なぜ集めるのか?そこにミニカーがあるから。」 35年以上のキャリアを持つ、日本屈指のホットウィール・コレクターの谷 隆弘(タニ タカヒロ)氏 。パッケージから出し造形を愛でる「ルース派」の美学を貫き、プロダクトの意匠やロゴに宿る魅力を深く探究している 。大阪の愛好家仲間と「レッドラインクラブ」と称する密なコミュニティを築き、情報の共有やトレードを通じて交流を深めることを活動の糧としている 。「そこに物があるから」という至極単純かつ深い哲学に基づき、今もなお飽くなき情熱でミニカーの世界を深掘りし続けている 。 35年を捧げたHot Wheelsコレクター、谷氏の壮絶な収集哲学 「なぜ集めるのか?そこに山があるから。」登山家ジョージ・マロリーの言葉を借りるなら、谷氏にとっての「山」は、他でもないHot Wheelsだった。35年間、この小さなダイキャストカーに人生を捧げてきた日本有数のコレクター、谷氏。彼の自宅に一歩足を踏み入れると、そこはミニカーと、それをめぐる熱狂的なストーリーが渦巻く、壮大な迷宮だ。「なぜかわからないんです。正直なところ。でも、気づいたら沼にはまってしまうんです。」今回、谷氏が語るのは、ミニカーに魅了され、その「熱」に突き動かされてきた、彼自身の壮絶な収集の物語だ。 狂気のミニカー道 昔、ホットウィールっていうミニカー自体、コブラとコルベットくらいしか知らなかった。ドラッグとかインパラ?そんな言葉も知らんかったですね。最初はトミカのスーパーカー世代。カウンタックとかストラトスとか、そういうのから入って。 でも、26歳くらいの時に、なんか急にカー雑誌でミニカー屋を見つけて買い始めたんです。トミカは子どもの頃から大事に持ってたけど、ホットウィールにハマったのは26歳からですね。 96年にトイザらス1号店が奈良にできたんですよ(奈良県橿原店が西日本1号店)。オープン当日に買いに行って、コブラとコルベットしか知らんから、そのコブラと赤いコルベットをゲットしたんです。 営業先からのおもちゃ屋巡り そこから、なんやかんやでドップリですよ。仕事がコンタクト関係で名古屋に10年間。石川まで車で営業に行って、帰りは必ず電話帳で調べたおもちゃ屋を巡り回るんです。 頭おかしい、アホですよね(笑)。35年前、26の時ですよ。電話帳で調べて、全部のおもちゃ屋を回りまくるっていうね。その頃はまだ、岐阜のアンデルセンとかハローマックとか、いっぱい店があったんですよ。大阪と京都を中心に兵庫まで、それから名古屋時代に愛知、岐阜と三重は、ほぼ仕事で行きましたね。仕事が無くても行ってます(笑)。 ドラバス 中でも、俺を狂わせたポイントはやっぱり*ドラッグバスですね。 95年に画像が出て、96年に発売されたんですけど、これレギュラーで500円で売ってたんですけど、俺はその時買えてないんですよ。ファーストエディションは全然探しても見つからなくて。青とかゴールドのバスが3万円くらいしてました。バスは思い入れが強いですね。 あと、ホットウィールはデザイナーの存在もでかい。ドラッグバスを作った*フィル・リールマンとか、*ラリー・ウッドとか。ミニカーをデザインした人がファンになるっていうのが魅力ですよね。 *ドラッグバスフォルクスワーゲン(VW)のタイプ2(通称ワーゲンバスやT1)をベースに、アメリカのドラッグレース仕様にカスタムされた、ホットウィールを代表する人気のオリジナルキャストの一つ。 *フィル・リールマンホットウィールのベテランデザイナーで彼が初めて単独でデザインしたキャスト(金型)の一つが、1996年に登場したVWドラッグバス。これは彼の出世作であり、現在も非常に人気が高く、多くのバリエーションがリリースされ続けている。 *ラリー・ウッド「Mr. Hot Wheels」と呼ばれ、半世紀にわたり700台以上のミニカーのデザインに携わったと言われている。他社のミニカーが実車のスケールモデルに注力する中、彼はホットロッドやカスタムカーといったアメリカの自動車文化に根差した、独創的で幻想的なデザインを数多く生み出し、ホットウィールを競合他社から際立たせることに大きく貢献した。鉛筆での手書きのデザインにこだわり続けた「オールドスクール」なデザイナーとしても知られている。 プロトタイプの衝撃 もうひとつ、外せないのが、あの「謎チュウ」時代。...

TAKAHIRO TANI SPECIAL INTERVIEW

「なぜ集めるのか?そこにミニカーがあるから。」 35年以上のキャリアを持つ、日本屈指のホットウィール・コレクターの谷 隆弘(タニ タカヒロ)氏 。パッケージから出し造形を愛でる「ルース派」の美学を貫き、プロダクトの意匠やロゴに宿る魅力を深く探究している 。大阪の愛好家仲間と「レッドラインクラブ」と称する密なコミュニティを築き、情報の共有やトレードを通じて交流を深めることを活動の糧としている 。「そこに物があるから」という至極単純かつ深い哲学に基づき、今もなお飽くなき情熱でミニカーの世界を深掘りし続けている 。 35年を捧げたHot Wheelsコレクター、谷氏の壮絶な収集哲学 「なぜ集めるのか?そこに山があるから。」登山家ジョージ・マロリーの言葉を借りるなら、谷氏にとっての「山」は、他でもないHot Wheelsだった。35年間、この小さなダイキャストカーに人生を捧げてきた日本有数のコレクター、谷氏。彼の自宅に一歩足を踏み入れると、そこはミニカーと、それをめぐる熱狂的なストーリーが渦巻く、壮大な迷宮だ。「なぜかわからないんです。正直なところ。でも、気づいたら沼にはまってしまうんです。」今回、谷氏が語るのは、ミニカーに魅了され、その「熱」に突き動かされてきた、彼自身の壮絶な収集の物語だ。 狂気のミニカー道 昔、ホットウィールっていうミニカー自体、コブラとコルベットくらいしか知らなかった。ドラッグとかインパラ?そんな言葉も知らんかったですね。最初はトミカのスーパーカー世代。カウンタックとかストラトスとか、そういうのから入って。 でも、26歳くらいの時に、なんか急にカー雑誌でミニカー屋を見つけて買い始めたんです。トミカは子どもの頃から大事に持ってたけど、ホットウィールにハマったのは26歳からですね。 96年にトイザらス1号店が奈良にできたんですよ(奈良県橿原店が西日本1号店)。オープン当日に買いに行って、コブラとコルベットしか知らんから、そのコブラと赤いコルベットをゲットしたんです。 営業先からのおもちゃ屋巡り そこから、なんやかんやでドップリですよ。仕事がコンタクト関係で名古屋に10年間。石川まで車で営業に行って、帰りは必ず電話帳で調べたおもちゃ屋を巡り回るんです。 頭おかしい、アホですよね(笑)。35年前、26の時ですよ。電話帳で調べて、全部のおもちゃ屋を回りまくるっていうね。その頃はまだ、岐阜のアンデルセンとかハローマックとか、いっぱい店があったんですよ。大阪と京都を中心に兵庫まで、それから名古屋時代に愛知、岐阜と三重は、ほぼ仕事で行きましたね。仕事が無くても行ってます(笑)。 ドラバス 中でも、俺を狂わせたポイントはやっぱり*ドラッグバスですね。 95年に画像が出て、96年に発売されたんですけど、これレギュラーで500円で売ってたんですけど、俺はその時買えてないんですよ。ファーストエディションは全然探しても見つからなくて。青とかゴールドのバスが3万円くらいしてました。バスは思い入れが強いですね。 あと、ホットウィールはデザイナーの存在もでかい。ドラッグバスを作った*フィル・リールマンとか、*ラリー・ウッドとか。ミニカーをデザインした人がファンになるっていうのが魅力ですよね。 *ドラッグバスフォルクスワーゲン(VW)のタイプ2(通称ワーゲンバスやT1)をベースに、アメリカのドラッグレース仕様にカスタムされた、ホットウィールを代表する人気のオリジナルキャストの一つ。 *フィル・リールマンホットウィールのベテランデザイナーで彼が初めて単独でデザインしたキャスト(金型)の一つが、1996年に登場したVWドラッグバス。これは彼の出世作であり、現在も非常に人気が高く、多くのバリエーションがリリースされ続けている。 *ラリー・ウッド「Mr. Hot Wheels」と呼ばれ、半世紀にわたり700台以上のミニカーのデザインに携わったと言われている。他社のミニカーが実車のスケールモデルに注力する中、彼はホットロッドやカスタムカーといったアメリカの自動車文化に根差した、独創的で幻想的なデザインを数多く生み出し、ホットウィールを競合他社から際立たせることに大きく貢献した。鉛筆での手書きのデザインにこだわり続けた「オールドスクール」なデザイナーとしても知られている。 プロトタイプの衝撃 もうひとつ、外せないのが、あの「謎チュウ」時代。...

TOSHIKAZU NOZAKA SPECIAL INTERVIEW

TOSHIKAZU NOZAKA SPECIAL INTERVIEW

画工・野坂稔和とホットウィール。値遇の縁。 一切の妥協をせず先人に近づく。野坂のアトリエにそう認めてある。魑魅魍魎が跋扈する文化の大海において、野坂稔和は何を表現するのだろうか。日本文化を根っこに、西洋文化を消化した唯一スタイルは、ホットウィールの世界でも光り輝いています。 [ 野坂稔和 Toshikazu Nozaka プロフィール ] 野坂 稔和 (のざか としかず) TOSHIKAZU NOZAKA野坂稔和美術研究所主宰 東京都出身。幼少の頃からプラモデル製作、オブジェ制作、絵画、スケートボードに夢中になり10代、20代をプロスケートボーダーとして過ごす。現在は画家、文身師、スケートボーダーとして活動し、主に個展、グループ展等で作品を発表。また国内外の様々な企業、ブランドなどにアートワークを提供し、主にスケートボードデッキの作画を数多く手掛ける。作品の制作における根底には江戸から明治にかけて活躍した日本の絵師への尊敬と憧れがあり、 主に河鍋暁斎の精神性、画法の研究、継承をライフワークとする。   === 1971年 DUTSUN 510 BLUEBIRD 自分にダットサン510のオファーがあった時、正直に嬉しかった。初めてのジャンルだったし出来上がりにもとても満足して嬉しかったです。ただこの時点では、ホットウィールに全く興味がなかった。 出来上がった製品を40台くれたんです。それを子供に片っ端から配って、親は勿体ないからとか言うんだけど「いいから!むいて遊んじゃえよ!」とか言って砂場でガンガン遊ばせたりとかして、それぐらいの感じでしたよね。 先ずこのダットサン510っていう車が、世界的にファンがいることも知らなかったし、現物車を見たこともなかった。ダットサンのトラックは工業系の先輩が実用車として使ってたから見たことはあるけど、フーンって感じだったんです。 インドネシア・ダイキャストEXPO 22年にダットサン510が発売されて、御厚意で23、24年とホットウィール・コレクターズ・ジャパン・コンベンション(以下、HWCJC)に出店させて頂いたんでけど、転売ヤーとかそういうのでちょっと嫌な思いをしたっていうか…そんな世界なんだと思って余計に興味がなかったんです。 だけどそこに2年連続でインドネシアからIDDの方々が会いに来てくれて「今度はうちでデザインしてくんないか?」って言ってくれた。 2年目で折れてインドネシアのIDDと組むようになって、現地のお披露目に呼ばれていざインドネシアのジャカルタに行くと、もう芸能人とかのディナーショーみたいに丸テーブルが何個もあって、ふかふかの絨毯が引いてある様なところなんですよ。チケットも結構高いし、そんなの人来るの?とか思ってた。馬鹿にするわけじゃないんだけど、自分がミニカーの世界を知らなかったんです。確か150人限定のイベントでしたが満員でデザインについてなどお話ししました。 数日後にIDE(インドネシア・ダイキャストEXPO)に出たら大きな特設ブースに自分がデザインしたミニカーの実車があってそこでサイン会をするのですが、めちゃくちゃファンが並んでくれてたんですよ。サイン会なんて1時間で終わらないから「赤ちゃんとか連れてる人は全員前に来てください。女性子供優先!!」もう途中から自分で采配を振るってやってました。...

TOSHIKAZU NOZAKA SPECIAL INTERVIEW

画工・野坂稔和とホットウィール。値遇の縁。 一切の妥協をせず先人に近づく。野坂のアトリエにそう認めてある。魑魅魍魎が跋扈する文化の大海において、野坂稔和は何を表現するのだろうか。日本文化を根っこに、西洋文化を消化した唯一スタイルは、ホットウィールの世界でも光り輝いています。 [ 野坂稔和 Toshikazu Nozaka プロフィール ] 野坂 稔和 (のざか としかず) TOSHIKAZU NOZAKA野坂稔和美術研究所主宰 東京都出身。幼少の頃からプラモデル製作、オブジェ制作、絵画、スケートボードに夢中になり10代、20代をプロスケートボーダーとして過ごす。現在は画家、文身師、スケートボーダーとして活動し、主に個展、グループ展等で作品を発表。また国内外の様々な企業、ブランドなどにアートワークを提供し、主にスケートボードデッキの作画を数多く手掛ける。作品の制作における根底には江戸から明治にかけて活躍した日本の絵師への尊敬と憧れがあり、 主に河鍋暁斎の精神性、画法の研究、継承をライフワークとする。   === 1971年 DUTSUN 510 BLUEBIRD 自分にダットサン510のオファーがあった時、正直に嬉しかった。初めてのジャンルだったし出来上がりにもとても満足して嬉しかったです。ただこの時点では、ホットウィールに全く興味がなかった。 出来上がった製品を40台くれたんです。それを子供に片っ端から配って、親は勿体ないからとか言うんだけど「いいから!むいて遊んじゃえよ!」とか言って砂場でガンガン遊ばせたりとかして、それぐらいの感じでしたよね。 先ずこのダットサン510っていう車が、世界的にファンがいることも知らなかったし、現物車を見たこともなかった。ダットサンのトラックは工業系の先輩が実用車として使ってたから見たことはあるけど、フーンって感じだったんです。 インドネシア・ダイキャストEXPO 22年にダットサン510が発売されて、御厚意で23、24年とホットウィール・コレクターズ・ジャパン・コンベンション(以下、HWCJC)に出店させて頂いたんでけど、転売ヤーとかそういうのでちょっと嫌な思いをしたっていうか…そんな世界なんだと思って余計に興味がなかったんです。 だけどそこに2年連続でインドネシアからIDDの方々が会いに来てくれて「今度はうちでデザインしてくんないか?」って言ってくれた。 2年目で折れてインドネシアのIDDと組むようになって、現地のお披露目に呼ばれていざインドネシアのジャカルタに行くと、もう芸能人とかのディナーショーみたいに丸テーブルが何個もあって、ふかふかの絨毯が引いてある様なところなんですよ。チケットも結構高いし、そんなの人来るの?とか思ってた。馬鹿にするわけじゃないんだけど、自分がミニカーの世界を知らなかったんです。確か150人限定のイベントでしたが満員でデザインについてなどお話ししました。 数日後にIDE(インドネシア・ダイキャストEXPO)に出たら大きな特設ブースに自分がデザインしたミニカーの実車があってそこでサイン会をするのですが、めちゃくちゃファンが並んでくれてたんですよ。サイン会なんて1時間で終わらないから「赤ちゃんとか連れてる人は全員前に来てください。女性子供優先!!」もう途中から自分で采配を振るってやってました。...