TOSHIKAZU NOZAKA SPECIAL INTERVIEW
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画工・野坂稔和とホットウィール。値遇の縁。
一切の妥協をせず先人に近づく。野坂のアトリエにそう認めてある。魑魅魍魎が跋扈する文化の大海において、野坂稔和は何を表現するのだろうか。日本文化を根っこに、西洋文化を消化した唯一スタイルは、ホットウィールの世界でも光り輝いています。
[ 野坂稔和 Toshikazu Nozaka プロフィール ]
野坂 稔和 (のざか としかず) TOSHIKAZU NOZAKA
野坂稔和美術研究所主宰
東京都出身。幼少の頃からプラモデル製作、オブジェ制作、絵画、スケートボードに夢中になり10代、20代をプロスケートボーダーとして過ごす。現在は画家、文身師、スケートボーダーとして活動し、主に個展、グループ展等で作品を発表。また国内外の様々な企業、ブランドなどにアートワークを提供し、主にスケートボードデッキの作画を数多く手掛ける。作品の制作における根底には江戸から明治にかけて活躍した日本の絵師への尊敬と憧れがあり、 主に河鍋暁斎の精神性、画法の研究、継承をライフワークとする。
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1971年 DUTSUN 510 BLUEBIRD
自分にダットサン510のオファーがあった時、正直に嬉しかった。初めてのジャンルだったし出来上がりにもとても満足して嬉しかったです。ただこの時点では、ホットウィールに全く興味がなかった。
出来上がった製品を40台くれたんです。それを子供に片っ端から配って、親は勿体ないからとか言うんだけど「いいから!むいて遊んじゃえよ!」とか言って砂場でガンガン遊ばせたりとかして、それぐらいの感じでしたよね。
先ずこのダットサン510っていう車が、世界的にファンがいることも知らなかったし、現物車を見たこともなかった。ダットサンのトラックは工業系の先輩が実用車として使ってたから見たことはあるけど、フーンって感じだったんです。
インドネシア・ダイキャストEXPO
22年にダットサン510が発売されて、御厚意で23、24年とホットウィール・コレクターズ・ジャパン・コンベンション(以下、HWCJC)に出店させて頂いたんでけど、転売ヤーとかそういうのでちょっと嫌な思いをしたっていうか…そんな世界なんだと思って余計に興味がなかったんです。
だけどそこに2年連続でインドネシアからIDDの方々が会いに来てくれて「今度はうちでデザインしてくんないか?」って言ってくれた。
2年目で折れてインドネシアのIDDと組むようになって、現地のお披露目に呼ばれていざインドネシアのジャカルタに行くと、もう芸能人とかのディナーショーみたいに丸テーブルが何個もあって、ふかふかの絨毯が引いてある様なところなんですよ。チケットも結構高いし、そんなの人来るの?とか思ってた。馬鹿にするわけじゃないんだけど、自分がミニカーの世界を知らなかったんです。確か150人限定のイベントでしたが満員でデザインについてなどお話ししました。
数日後にIDE(インドネシア・ダイキャストEXPO)に出たら大きな特設ブースに自分がデザインしたミニカーの実車があってそこでサイン会をするのですが、めちゃくちゃファンが並んでくれてたんですよ。サイン会なんて1時間で終わらないから「赤ちゃんとか連れてる人は全員前に来てください。女性子供優先!!」もう途中から自分で采配を振るってやってました。
その時に、こんなに喜んでくれるなら何にも知らないとファンに失礼だと思いました。でもそれでもまだ会場でホットウィールを1、2個買って帰るぐらいで終わってたんですけどね…。
ミニカー世界の奥行き
そのあと直ぐに北海道へ行って壁画を描かなきゃいけなくて、雪も降り始めの頃にたった1人で自炊しながら、自分を律して描かなきゃならない過酷な現場だったんだけど、夜にスイッチをオフにする意味でホットウィールを勉強しようと思ってネットで色々調べていたら…、もう自分の世界観が2ヶ月でできちゃうくらい完全にハマってしまいました。
元々プラモデルが好きだったこともあり、エアブラシを扱ってきたし、基本的にオモチャが好きだったっていうベースがありながらも、一番の理由はマスの広さなんです。こんなにもファンがいるのかと、こんなにも女性のファンがいるのかと、こんなにも子供から爺さんまでファンがいるのかと。
ホットウィールの特にメーカーとしての良さは、必ず好きな車に出会えるほどの種類と量を供給してること。歴史もあり、実在のあらゆる車以外にコンセプトカーや謎車もある。それが決定的でしたね。ミニカーの世界がこんなに奥行きがあるのかっていうのがわかり、この3年かけて好きになりました。
謎車
ハマってから正直、最初の2ヶ月間にほとんどのトイメーカーの車体を一通り手に入れました。何がどこがどうでって調べ上げて、なるほどトミカはバネが入ってるのかとか、全部見たんです。
高いシリーズだったり、いくらでもカッコイイのあるんだけど、現行の市場でレギュラーの400円くらいってのが一番カリフォルニアらしいと思いましたね。やっぱりホットウィールって前提としてカリフォルニアテイストっていう絶対的なテーマがあると思います。そこにエド・ロスさんとかのカスタムカルチャーが混ざってるから、そういう意味でも奥行きがある文化だと思いました。
その中で架空車、謎車のジャンルっていうのは、やっぱりホットウィールのデザインチームのクリエイティビティを感じるし、遊び心も入ってる。だからいつか自分が初めから創るならその方向だと思いました。
もしもね、ロサンゼルスのカスタムコンテストに出せるんだったら、基本はホットウィールのベースを使って出す部分と、原型がわからないほどの架空車を出したいんですよ。で、最終的にはホットウィールがほっとけないぐらいのブッ飛んだカスタム車を。
プラモデラー
自分、もう3歳になる手前ぐらいからプラモ作ってたんですよ。母親にF15イーグルが欲しいってねだったんだけど「そんなミサイルたくさんついてるのは、作れっこないからこれにしなさい」ってチンチン電車を買ってもらったんだけど、そんなのパーツ少ないからすぐ作っちゃって、もう思いっきり駄々こねてF15イーグルを買ってもらったんです。1週間ぐらいかけて仕上げて、そこから高校生まで完全にプラモデラーでした。
幼稚園も小学校も行ってない時期が何年もあったんで、基本的に自分1人で瓶を集めてお金に換えて、プラモ買って、ずっとプラモを作っては、街のプラモデル屋のコンテストに片っ端から出してを繰り返してました。
そしたら建築模型の会社の方にスカウトされて、小六くらいから仕事を手伝いながら技術を磨いたんです。まだCADがない時代だったけど、パンタグラフマシーンで削り出したりしてましたね。あと木彫り人形を自分で制作して町で売るとか、そんな生活してたんです。
福生ジャパマハイツ、立川アメリカンビレッヂ
福生から立川に引っ越した時も、またなかなかぶっ飛んでて結構クレイジーな人がいっぱいいた。
ずっと米軍住宅に住んでた関係で、友達もアメリカ人だし、子供の頃からアメリカ的な生活を強いられてました。街のある一角では黒人と白人がブレークダンスを踊ってたり、BMXやってたりとかそういう感じで、同じエリア内に(真木)蔵人くん一家が住んでて、日曜日になると革ツナギを着た蔵人くんがポケバイで走ってるみたいなとこでした(笑)。
更に一角には不法滞在らしきオカマのフィリピン人家族が住んでて、拾ってきたのか盗んできたのか分かんないパッソル(原付)のエンジンとアルミ材、あと物干し竿を潰して穴開けてフレームにして、エンジンと組み合わせて三輪車作ってそのエリアを爆走してたんですよ(笑)。
そこに米軍の軍人が置いてった尻尾も切られてないドーベルマンが何匹も野生化していたりとかっていうワイルドなところでした。ちょっと想像つかないと思うんですけど、なかなかのところでスケートボード三昧、プラモ三昧、工作三昧、一番楽しかった時期でもありますね。
立川に引っ越してから行くようになった小学校の前には90°の直角の緩坂の激キツなカーブがあって、直角ん所のフェンスが石で作られてるんだけど全部がトゲトゲなのね。
だからハイサイドとかスリップで喰らうと、必ずそこに突っ込むんです。チャリンコで何回も突っ込んですごい怒鳴られたりとかしながら一人で遊んでたんですね。
その頃は、拾ってきた自転車を全部ばらして、塗装して、組み直してアメリカンビレッジのバザーで売るんですよ。結構売れる(笑)。自分のはケニー・ロバーツ仕様で黄色くてカスタムしてね。
自分らの小学校の独自カスタムがその頃あって、喧嘩相手が横田基地の軍人の子供とかなんで、せっかく作った秘密基地に立ちションとかされて腹立って、チャリのハンドルに塩ビパイプつけて5連とかでロケット花火を装備して見つけ次第打つみたいなね。あと米軍近いから低空飛行の米軍機とか見つけたら必ず打つみたいな感じ(笑)。
車輪カルチャー
中1の時に授業で骨折して1ヶ月くらい暇になっちゃって、その間に本屋で手に取った雑誌がベニス特集。そこにDOGTOWNなんかのスケートボードシーンが載ってて、それに電流くらっちゃって、もうギプスつけたままスケボー始めましたね。プラモにも熱上げてたけど、どんどんスケートボードに夢中になりました。
スケートボードの世界って何か新しい人種に出会ったみたいな感じでしたよ。要は社会構造から外れてる感じがたまらない。その当時のベニスのスケートボーダーはプロモデルが出てても、ガチのギャングメンバーだったりとか、なんかちょっと違うんですよね。
だから日本でプロになっても何がプロだっていうぐらいの雰囲気だったんで、アメリカ行ってアメリカのコンテストに出て、アメリカでプロスケーターになりたいって思ったんですよ。
彫師
高3になって往復チケットと400ドルだけ持って一人でアメリカに行ったんです。高校も親もバックれて不法滞在10年頑張って市民権を得る計画だったんですよ(笑)。そしたらロサンゼルス暴動の数ヶ月前でとてもデンジャラスな雰囲気、それどころじゃなくなっちゃった。
日本戻ってどうするかって時、京都香炉か、加賀友禅かどこかに弟子入りするかって時に、瓶集めしてる頃に拾ったオトナ系雑誌で見た観音様の彫りもんが昨日のことのように蘇ってきて、あっ!それを彫れる人になろうっと決めて、高校在学中から彫りもんの世界に入るって決めて独学で勉強を始めました。
その後の経緯は省きますが今日の今日まで1日も休まず追求しています。
画工
自分のアンテナに、今その時々ではまってしまったものに何もかもを突っ込む癖があるんすよ。はまったときに必ず通過するのは、最初にまず一通りその文化の勉強する。で、どの時代に誰が素晴らしいか、何が一番優れてるのかを徹底的に研究する。
一番最初に最上級のものを見て、まずクオリティとか、その良さの何が良いのかっていうことを自分の中でちゃんと見つけられたら、あとはもうそれ以外何も見ない。最上級のものが確定すればそこを基準に目指しつつ、自分のフィルターを通して頑張るだけですね。
それでもやっぱり一生かけても絶対到達できない人とか、そういう作品に必ずぶち当たるんで、そこは逆にその存在のお陰で謙虚な気持ちになれると思います。
だから絵の世界もさんざんいろいろ描いてるけど、基本的に幕末明治の日本の絵師の人が最上級だっていう認識になったから、その人たち以外はもうまったく見ない。だから河鍋暁斎展とかあると1回の展覧会で5回も6回も見に行くんですよ。
要はいろんな人のを見ると要らない影響を受けちゃうから。 例えば現代美術の個展とか見に行ってしまったがために、急にアルミのパネルに描きたくなるとかね。 そうなってくると余計な情報のせいで自分の目標に行くまでが、かえって大幅に遠回りになるんですよね。
後は目が汚れるっていうか、色のくどい、バランスの悪い構図とかを見てしまったがために、何かそういう色や構図が意識の中にあることだけで耐えられない。だから 徹底的に日常で見るもの、触れるものには気をつけています。
無意識の集大成
結局、見たくないタイプの画っていうのは、もちろんみんな根底にはやる気があるんだろうけど、その根底がネットから何からいろいろ情報を探って、無意識に取り込んでしまったものの集大成があまりに多いんですよ。
そこをできる限り排除して、人と違った生き方を、その日々の暮らし方をしたい。人間社会のこの30年は特に文明の腐って落ちてる最中な時期なんで、それを収拾するっていうことは一番自然から程遠いと思ってるんですよ。
だから絵を描くにしてもどっちかっていうと、道に落ちてる落ち葉の方がよほど美しいっていう感覚がある。何が優れてるかっていうことの意識の根底に何があるかによって、その人のパーソナリティが全然違ってくるじゃないですか。 だから人間社会だけを見てる人の意見を聞いてても、あんまり面白くないっていうか、どっちかというと自分はカエルと喋ってる方が好きな方だから。
とても不器用な生き方をしていると自分自身感じていますが、それでも自分の画業を通して世の中が明るくなるように貢献したい。日々そんな気持ちで制作に励んでいます。【了】
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